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◆現在の形が出来たのは

 江戸時代の小倉祇園は、ご神幸に城下の各町内から、いろいろな趣向を凝らしたやま車、
踊車、人形引車、傘鉾、踊り子などが追従するという豪華なものであった。

 しかし明治時代以降、小倉祇園は山車に据え付けた太鼓を叩き、それに調子をとる
ジャンガラ(摺り鉦)が加わり両面打ちの太鼓を主体とした祇園へと展開したのである。

◆太鼓の起源は

 そもそもの祇園祭は、鉦(かね)、鼓(つつみ)、笛(ふえ)を用いたと記録にあり、
その叩き方は「能」の形式であった。「祇園会神事神山次第」という文章に
『万治三年(1660年)、囃方清五郎が藩主のお供をして江戸表に上り、山王神事の
囃し方を聞き覚え、小倉に帰国後、子供四人を集め、教授せしが始め也』とあり、
その頃から今の撥さばきが始まったのである。今から約三百年前のことである。

◆祇園祭の起こりは無病息災の祈りから

 そもそも祇園祭は平安時代、夏になると悪疫が流行したり稲などに害虫がつき、
これを悪霊の仕業と考え、この悪霊を慰め退散させるために神に祈ったことを
起源とする祭である。

 旧六月に行われてきた「小倉祇園」は、小倉城を築城した細川忠興が、無病息災を
祈るとともに、城下町繁栄策のひとつとして、元和三年(1617年)に祇園神社
(現在の八坂神社)を建て、京都の祇園祭を小倉の地に取り入れたものである。

「愛宕山の鷹狩り」
 
八坂神社の創建については、いかにも神社らしい伝説が伝えられている。
細川忠興が狩りに出た折、たまたま愛宕山に登ると小さな石の祠があった。
持っていた杖でその祠の扉を開けようとしたところ、中から一羽の鷹が飛びだし、
はげしく忠興の両目を蹴って翔び去った。失明した忠興は、これは神の怒りに
ふれたのだと恐懼して、非礼を詫び、清地を選んでその愛宕山の祇園社を移して
祀った。神慮あらたかで、やがて忠興の両目は平癒し、みごとにふたたび明りを得た。
この清地というのが現在の鋳物師町だというのである。

   
◆小倉の祇園は金がふる

 下関の有名な年中行事の一つである赤間宮の先帝祭と、小倉祇園祭は
不思議にも天候に恵まれず雨が降ることが多かった。そこで当日、天気が
良いと大変な賑わいとなり、十数万人の見物人で城下町は沸きかえるような
お祭りとなる。『先の先帝、小倉の祇園 雨が降らねば金がふる』といわれ、
商売繁盛、お賽銭の山が築かれたのである。

 「うんちく」

 城下町の古い言い伝えに「祇園風に吹かれると夏患いせぬ」とある。
梅雨が明け、さらっとした涼風に吹かれ、まして郷土の祭り、小倉っ子には
心身共に健やかになる良薬以上のものではなかろうか。

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